●植木雅俊と日本仏教界の闇。 ●日本仏教界が恐れる法華経とは!? ●法華経原始仏教説は日本仏教界全体を巻き込んだ壮大な陰謀。 ●法華経翻訳はgoogle翻訳で可能(笑) ●信仰という名の下に行われるイメージコントロール
サダルマ プンダリカ スートラ सद्धर्म पुण्डरीक सूत्र
『大曼荼羅』
当ブログは経禄としては「開元釈経禄」を根拠としているが、 「開元釈経禄」にあっても、偽経と言われているものがある。 また、学者の論文とは独自研究に過ぎない事を前提としている。 その根拠は、実際、立正大学仏教学部に、電話で聞いてみたところ、
「学者の論文とは、単なる著作物に過ぎず、論文とは、それぞれの学者の「独自研究」であり、 実証する必要もなく、客観的事実である必要もない。 著作物には著作権があり、学者が、他の学者、或いは、素人の指摘によって論文の訂正をする義務は断じて無い」
とのご返事を立正大学仏教学部からいただいたからである。 仏教学及び、仏教そのもの、或いは釈迦直説などは、元来「立証不可能」なものなのだ。
「開元釈教録」かいげんしゃっきょうろく Kai-yuan shi-jiao-lu
中国、唐の智昇編の訳経目録。略して『開元録』。 20巻。開元 18 (730) 年成立。 中国に仏教が伝わってからだいたい660年間に176人の人々によって訳出された、 大小乗の経律論の三蔵と訳出者らの伝記、失訳 (訳者不明のこと) 、欠本などを記録した書物。 全部で 1076部 5048巻を収め、序列整然として、記事が正確であるから、以後の大蔵経の内容を規定する標準となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
参考文献 ●ほんとうの法華経:(ちくま新書)橋爪大三郎 (著), 植木雅俊 (著) ●サンスクリット原典現代語訳法華経:岩波文庫 ●植木雅俊:『法華経とは何か その思想と背景』中央公論新社,2020.11 ●勝呂信静:法華経の成立と思想:大東出版社など。
植木は、京都仏立ミュージアムにて、「釈迦の死後、仏教は乱れに乱れてくるわけですよ!大乗仏教はお釈迦様を超人化するでしょっ!そして架空の仏が考え出されます。毘盧遮那仏、阿弥陀仏、弥勒菩薩、こういうものはイランの神様なんですよ!こういった架空の仏は実在しないんですよ。法華経はそういった仏を痛烈に皮肉ったんですよ」と言っている。しかしながら釈迦を超人化したものが法華経であり、架空の仏のほとんどが法華経起源であり、密教で重要な仏のほとんどが法華経が開発したものである。さらに毘盧遮那仏は法華経より全然後代の成立なのでつじつまが合わない、さらに法華経のどこに毘盧遮那仏を皮肉った事が書かれているのか?植木はなぜこのようなおかしな事を言ってまで原始仏教と法華経を結びつけようとするのか?さらに植木は法華経に差別思想や呪術があるのは、その当時のインドの時代背景のせいである。つまりバラモン教の統制が強くなった事による妥協であると言っている・・・これに関しては植木の師匠である中村元博士がそう言っているのである。中村博士は法華経、あるいは真言密教などは、バラモン教の統制に妥協したものであって、特に真言密教は完全にバラモン化しているという。法華経に関しては仕方なく仏教側が取り入れたものだと言う。日本の仏教学会の一部では、この「珍説」が論ぜられているが、法華経の編纂時、インドではバラモン教の統制は無かったのである。したがって法華経にバラモン教の神、或いは土着神、魑魅魍魎などの人間以外のものが登場するのは、バラモン教の統制の影響ではないのである。そして日本仏教学会が洗脳を受けている西洋の学説、すなわち原始仏教は科学的で男女平等を説いていたとか、ヒューマニズムに満ち溢れていたという幻想を真に受けた明治時代のバカな仏教学者が挙ってこの説に心酔し、自分がいかにも物知りであるかという自己満足を満たす格好のネタになったのである。そして大乗仏教は創作なのだから価値が無いという、短絡的思考が蔓延るに至り。もともと信念が無い日本の僧侶がこれを支持するという事態に至ったのである。しかしながら原始仏教こそが学者の願望から出た架空の仏教なのであり。実際ゴーダマシッダルタの直説など現代では分からなくなっているのである。釈迦の教えはほとんど口承で伝えられており、パーリ仏典がまとめられたたのは15世紀以後なのである。宗教とは歴史学ではなく、教えの内容に意味があるのである。大乗仏教が釈迦の直説である必要がどこにあるのか?
植木博士は元々理科系の教師だが、40になってからサンスクリット語を勉強し、先人の翻訳よりも、間違いのない忠実な翻訳をした、という触れ込みの本を書いている、しかしながら私が読んだところ、その翻訳は弥勒菩薩をマイトレーヤなどと書いているだけである。法華経は先人が翻訳しており、実際、植木先生の法華経と先人の翻訳を比較しているが、そこには法華経の解釈が変わるほどの重大なミスは無く、ほぼ同じである。植木博士は博士と言っても仏教学部卒ではなく、文学部仏教学科卒でも文学部印度哲学科卒でもない。お茶の水女子大学大学院博士課程後期ジェンダー社会科学専攻で博士号を取っている。学位論文は、「原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の思想」であり、学位は人文科学博士となっている。植木は人文科学の博士号を持っているが、仏教関連の博士号は持っていない。お茶の水女子大学において、法華経の博士論文を提出し受理された(お茶の水女子大学で男性初)。仏教関連の博士号を持っていなくとも仏教学者と名乗ってよいのであるし、浄土真宗である中村元博士の東方研究所という学校でサンスクリット語を学んだのならそれで十分ではないかと思われるがやはり学会での箔を付けたかったのであろうか?植木博士の本来の専門分野は理科系であり、そちらの方は修士号のみである。植木は法華経の権威であるかのように振舞っているし、権威付けの賞を沢山もらっている。
植木の法華経後半六品に対する叩き方は不自然である。植木は、法華経の薬王菩薩本事品には阿弥陀思想が混入しているので男女平等に反するという事。 また、観世音菩薩普門品には男女の産み分けがあるので、法華経の思想ではないと主張する。因みに観世音菩薩がフェミニン(女性の姿)を持つのは中国起源であり、インドではない。さらに法華経後半の6品が御利益信仰であり法華経本来の思想である菩薩行とは異質な思想だから追加されたと主張している。さらに原始仏教のヒューマニズムや平等性を高尚なものであり、呪術や御利益は低俗なものであり、客寄せのファーストフードであると言っている。しかしこれこそが植木の言う差別思想なのではないだろうか?植木は法華経のほめ殺し戦法すなわち法華経原始仏教説を展開しています。
植木は呪術性が全然ない宗派の出身なので平等思想やヒューマニズムの意味が分かっていない。法華経がありとあらゆる登場人物、人間以外の者までを取り込むのは、法華経が平等思想、ヒューマニズムのお経だからである。そして実際、呪術や神通力は面白いのだから駄々を捏ねても仕方がない。植木は法華経の後半6品は、ない方がよかったと難癖をつけているが、ヒューマニズムの意味が分かっていないのである。法華経の呪術性、登場するキャラクターの取り込みは人間以外の者にまで及んでおり全く差別がない。そして法華経に呪術・呪文が登場するのは平等思想だけでは主張が弱すぎるからである。
法華経は小乗から分裂した弱小教団或いは、落ちこぼれの僧侶たちがガンダーラという辺境の地へ追いやられ、或いは自ら辺境の地に出向き、そこで運よくVIP待遇で迎えられ、民衆と一緒になって創作したまことに微笑ましい創作秘話を持つお経なのである。法華経は生まれも育ちもガンダーラ地方であり、ガンダーラ地方の土着神が守護神なのである。。また釈迦仏そのものを超人化しているので大手を取っている。そして法華経は大乗経典の中でもっとも有名かつ最大の影響力を持つ万能経典となった。。 大乗仏教の代表作である法華経は、全品が土着神、或いはバラモン教の神、或いは人間、人間以外の者、すなわち魑魅魍魎などを無差別に取り込んでおり、一見、荒唐無稽に見える。しかしそれは読み方が浅いからだ。実はこれこそが法華経の平等思想なのである。法華経が何ゆえこれらの者たちを登場せしめているのか?これには意味があるのである。これこそが法華経的平等思想なのである。植木の主張する人間様目線の平等思想ではなく、法華経こそが真実の平等性とヒューマニズムを説いているのである。
さて、法華経に含まれる呪術性についてだが、法華経の観世音菩薩や薬王菩薩、ダーラニーは、後半6品に備えて序盤から予告されており、法華経は後半6品が無くては成り立たないのである。実際、考古学的にも後半6品のない法華経はただの一度も発見された事が無く、文献学的にもその痕跡すらない。観音の浄土である、ポータラカ(Potalaka、補陀落)が観世音菩薩普門品に登場しないと言う事は、法華経後半6品が華厳経入法界品より古いと言う事を意味している。 植木は、自分の論文であるジェンダー平等の思想を皮切りに後半6品の謗法を行い、法華経の後半6品に八つ当たりしている。さて、ここで一つの仮説がある。法華経以外の経典の価値を上げようと画策する祈祷を行わない宗派によって、植木に白羽の矢が立ったのではないか?と言う疑惑である。それは、もともと植木が仏教外部の人間だったからではないのか?本来理系である植木が40過ぎで、サンスクリットを勉強したという事がそれを物語っている。 法華経の「平等思想」と「呪術性」は完全に一致した思想であり親和性が高いのである。法華経の呪術や御利益が低俗だと言うならば、法華経の平等思想までが低俗と言う事になってしまうのである。「人間以外の登場人物」+「如来の秘密」=「法華経の根本思想である平等思想」なのであって、植木が「高尚だと力説する原始仏教」という妄想に近い部分は法華経前半の「導入部」に見られる仏弟子中心に釈尊が説法している部分であるが、この「法華経の導入部」は、原始仏教でも何でもなく小乗仏教をこき下ろし大乗に移行する目的でつくられたものなのである。法華経がいかに古いお経であるかがわかる。そして法華経においては、平等思想は、最も重要な思想であるが、一般人が考える常識を超えている。そして法華経のもう一つの特異性は、ストーリーの「入れ子構造」等に見られるパフォーマンスやキャラクターの独自性だ。呪術性や神通力はファーストフードではなく「方便」なのである。呪術性が低俗だとか妥協の産物だとかいうのは、「負け惜しみ」「負け犬の遠吠え」「悪あがき」であり、浄土真宗の中村博士からの踏襲でもある。後半6品の観音信仰やダーラニーは、植木の宗派にとって最も認めたくない泣き所であり、客寄せのファーストフードだとか難癖を付けている部分である。植木はちくま書房のほんとうの法華経で「普賢菩薩なんてあんまり有名じゃないですよね~」と言っているが普賢菩薩は有名で釈迦三尊の脇侍である。これこそが呪術性のない宗派の「負け犬の遠吠え」である。実は普賢菩薩勧発品にも陀羅尼があるのである。
次に法華経成立史であるが、五百弟子授記品第八には、明確な男女差別があるが、これを植木はどう説明するのか?・・・法華経にはこのように満遍なく異質な思想が混入している。素人在家衆が創作した経典なのだからところどころに矛盾した思想があるのは当たり前である。そして下劣で恣意的な法華経成立説に従うならば、五百弟子授記品第八は、第一類に属する。したがって、法華経後半に差別があるのではなく法華経は後半6品以外にも差別がある。つまり植木の理論は破綻しており全く辻褄が合わない。ここからも植木が故意犯なのでは?と思わざるを得ない。植木は原始仏教あるいは日蓮教学を信仰しているというふれこみだが、日蓮教学の都合のいい所だけをピックアップしている。植木の法華経に対する妬みは相当強い。とある禅宗寺院の檀家が、「観音経が法華経である事を知ってガッカリした」と言っていた。なぜガッカリする必要があるのだろうか?また、聖観音が本尊の浅草寺の住職で学者の上村真肇氏は、「世尊偈はもともと別のお経であった、或いは後代の付加である」と主張している。また、主張が不安定である。この方も法華経に対する妬みは相当強い。世尊偈は普門品の散文から作られたものであり、別のお経ではない。竺法護の正法華経27品が、伝統的に本来の法華経である。そして法華経が密教の対極にあるかのような印象操作は学者として恥ずかしい。むしろ密教に呪術だけがパクられたと言うべきである。法華経は密教より600年以上古いのだ。どちらが観音菩薩やダーラニーの本家本元なのか?よく考えろと言う事だ。
しかしながら法華経は、「如来の秘密」であり、法華経は釈尊が起こした仏教に便乗して作られた釈尊を超える教えなのである。紀元前300年代ごろ、アショーカ王はインド全域を征服し、各地に仏塔を建立した。ガンダーラ地方も征服され、すでに仏教は伝わっていた。法華経はガンダーラあたりの仏教徒が創作した古代信仰+仏教ともいえる。もちろん法華経は、もともとパーリ語でもサンスクリットでもなくガンダーラ語である。法華経は建前上は釈尊の教えであるが、釈尊よりさらに深い教えなのである。 如来の秘密と御利益、経典受持の功徳を謳っている。そして法華経が仏教、或いは釈尊の教えと名乗っている事には何の問題もない。 そういう触れ込みで書かれたお経だからである。
法華経には、経典絶対主義、至上主義が貫かれているため、妬みを受けやすい。植木氏は、日蓮信仰のつまみ食いから来る、法華経に対する、「珍説」「トンデモ論」を展開している。植木氏は原始仏教を褒めたたえている。そして「ほんとうの法華経」という本を書いている。何が本当の法華経なのか?植木は法華経前半の対告衆が仏弟子である導入部が一見、原始仏教と似ている事を巧妙に利用している。また、植木は、京都仏立ミュージアムにて、「毘盧遮那仏、阿弥陀仏、弥勒菩薩、こういうものはイランの神様なんですよ。こういった架空の仏は実在しないんですよ。法華経はそういった仏を痛烈に皮肉ったんですよ」と言っている。しかしながら架空の仏のほとんどが法華経起源であり、さらに毘盧遮那仏は法華経より全然後代の成立なのでつじつまが合わない、さらに法華経のどこに毘盧遮那仏を皮肉った事が書かれているのか? また植木は、西方十万億土まで、光の速度で行っても100億年かかると言っている。つまり成仏していないと言っているのだ。これは大変な事を言っているのである。浄土系の檀家の亡くなられた方々が成仏していないと言っているのである。すなわち植木の恩師である中村元博士も成仏していないのか?しかしながら、どういうわけか真言宗や浄土真宗から苦情が出ていないのである。この事からも法華経原始仏教説が日本仏教界ぐるみの、日本仏教界全体を巻き込んだ壮大な陰謀である事がわかる。 つまり私が言いたいのは、植木雅俊が自分が理科系という立場から呪術性が低俗、原始仏教は高尚という科学的な立場に立脚していると見せかけ、内実は呪術性或いは神秘主義の先駆者である法華経に対する妬みを晴らそうとする故意犯であると思われるのである。
植木は真言と同じく御利益信仰で、祈祷を行う日蓮系に妬みを持っている。そして中村元の言う頭の悪い一般民衆に人気があるのは御利益・神通力系である日蓮宗と真言宗だろう。しかしながら、あらゆる神通力、呪術、御利益、功徳、神秘的な力の本家本元は法華経、すなわち日蓮系であると言う事である。因みに修験道の開祖役小角は法華行者であり、葛城二十八宿は法華経信仰である。すなわち祈祷の歴史は密教より法華経が古いのである。法華経のダーラニーは法華行者を守護する。そして御祈祷の本懐は病気平癒であり、薬王菩薩品の「病即消滅、不老不死」そして、「薬王菩薩のダーラニー」がある。法華経のダーラニーは全部で六首もある。その様な法華経の独創性から生まれた経典こそが、大日経、金剛頂経、華厳経なのである。そして、空海の密教伝来以降、平等思想である法華経から権力志向の密教に塗り替えられたのである。現在仏教界において僧侶、学者どもが法華経の後半6品はオマケであると口裏を合わせているようだが、ウソはいずればれる。後半6品の無い法華経など発見されていないばかりか、中国の入蔵目録にもない。竺法護訳が本来の法華経の原型である。
法華経の章立ては、まず序品で法華経の伝説から始まり、「如来の秘密」が説かれる前兆が現れる。第2章から9章、とくに3~5章は、「法華経の導入部分」で、火事の家から子供を救出する話、長者が貧乏な実の息子を救出する話、草木までもが成仏するというたとえ話をもってして小乗仏教の間違いを正し、誰でも成仏できる、志を高く持てと指導する。そして第6章では授記を授けそれを証明する。十章から二十一章は、壮大なスペースファンタジーであり、如来の秘密、神通力、大宇宙や多次元宇宙、ブラフマー界にも繋がっている事、法華経、釈尊が時空を超えたものである事。如来の入滅が方便である事、について解き明かす。華厳経や密教もここから生まれた。毘盧遮那仏、大日如来は十法分身久遠実成釈迦牟尼仏がモデルである。二十二章から最後の嘱累品までが、法華経独自の菩薩たちや守護神の章で、植木の宗派にとって都合が悪い部分である。
後半6品の観世音菩薩、妙音菩薩などの分身化身思想は、根本的な法華経思想であり、十法分身釈迦牟尼仏、日月燈明如来等に見られる法華経の「多次元宇宙論」である。植木は「インド人は呪術が好きなんですよ」(NHK100分で名著での発言)と言っているが、呪術が好きなのはインド人だけではない。法華経から呪術性というご馳走を取ったら何が残るのか?如来の秘密が残るのである。植木の宗派は法華経第2章から第9章までの、対告衆が仏弟子中心である法華経の導入部が本来の法華経で、法華経のクライマックスやエンディングは読みたくない様である。
また植木は、法華経は、「女人成仏」のお経というが、法華経は「即身成仏」のお経である。変成男子というものは実に分かりにくい。竜女は結局男になってから成仏しているのであって、「竜女⇒男⇒正等覚」これが一瞬で行われた。すなわち提婆達多品には『即身成仏』が説かれているのである。男女ともに即身成仏できるが、女性の場合は一旦男になって成仏する。しかしいずれにしても一瞬なので時間は同じであるという意味なのである。これが植木の説明では舎利弗が女人成仏を信じないので男になって成仏して見せた、すると舎利弗は黙り込んだとなっている。しかし女人成仏と言えば「鬼子母神・羅刹女」こそ女性の姿のままで成仏しているのである。。因みに観世音菩薩がフェミニン(女性の姿)を持つのは中国起源であり、インドではない。断っておくが、平等思想などというものは、神通力や呪術とセットで無ければパワーが無い。実際、神通力は効力のあるモノであり、そのパワーを見た者がいる。実際本物の釈尊は「神通力」を発揮している。そうでなければ面白くないだろう。何度も言うが神通力はファーストフードではなく「方便」である。
つぎに、植木の主張する法華経における阿弥陀思想の混入であるが、法華経は阿弥陀仏を肯定している。阿弥陀仏を否定したのは「日蓮」である。日蓮宗の大曼荼羅の中には、阿弥陀仏はいない。日蓮は辛辣な浄土教批判を行った。それは天台が阿弥陀仏に傾倒していたからだ。つぎに、法華経の成立について述べる。法華経の成立史に対して、第一類、第二類、第三類などと、勝手に分類しているようだが、 勝呂信静博士(東京帝国大学文学部印度哲学科卒で文学博士号を持ち、日蓮宗僧侶)の法華経27品一時成立論が正統な論文と言える。植木雅俊氏の論文は読むに値しない。「観世音菩薩普門品」に関しては法華経の原型である竺法護訳286年にあり、本来の法華経の一部である。そして世尊偈(普門品偈頌)に関しては、「重偈」であり、観音経の散文(長行じょうごう)から作られたものだ。さらに中国の入蔵目録にある単独の「観音経」らしきものは、法華経から抜き出した別行本である。尚、これらの別行本は、入蔵目録にはあるが現存しない。
竊見提婆達多。及普門品偈。先賢續出。補闕(欠)流行。余景仰遺風。憲章成範。 原本を見ると「提婆達多品」と「普門品偈」はすでに先人によって欠が補われ流行していた。余は、遺風を仰ぎ模範とする。
また、「嘱累品」が途中にある事を段階成立論の根拠にする学者がいるが、601年の西安大興善寺所蔵たらのは原本からの校正、いわゆる添品妙法華経において、嘱累品を移動したのは鳩摩羅什である事が、「序文」にも書かれており、確定している。鳩摩羅什以外の法華経漢文・梵文は全て嘱累品が最後にある。さらに鳩摩羅什は嘱累品移動の際、必然的に普賢菩薩品が最終章となる事から、普賢菩薩品ラストに実際のサンスクリットには無い「結文」を挿入している。また方便品の「十如是」も鳩摩羅什の創作である。鳩摩羅什は有能だが、余計な事をするから信頼しすぎてはならない。また、学者はサンスクリット文法などを調べ上げ法華経の起源について血眼になって調査しているが、法華経は本来ガンダーラ語なので、サンスクリット翻訳時に文法の制約を受けている、特に偈頌などが制約を受けているのでほとんど意味が無いのである。サンスクリットはgoogle翻訳でも出てくるので結構面白い。
また、一連の法華経段階成立論、或いは後半追加説は、日本仏教界が密教や空海を擁護しているのではないかとも考えられる。平安時代以降、貴族が密教を信仰し、権力にとって都合の悪い法華経は密教に塗り替えられた。実際、真言密教は法華経ほど言及されないし、分析もされない。密教は大乗仏教で開発された膨大な仏を取り込むためシンボル化された仏教で、呪術を方便ではなく真実としている。そこが法華経と違うところだ。およそ密教というものはそれほどストーリー性のあるモノではなくどこで切っても成り立つ「金太郎あめ」のようなものだ。それゆえに膨大な菩薩・如来を扱えるのである。実は空海請来目録の不空訳、初会金剛頂経しょえこんごうちょうきょう(真実摂経しんじつしょうきょう)が金剛界大曼荼羅のみである事(本来、初会金剛頂経には28の曼荼羅が説かれている)。そのため真言宗の九会曼荼羅くえまんだらは密教経典に無く、真言宗のオリジナル曼荼羅なのである。空海が最澄にお経を貸さなかった。最澄はしぶしぶあきらめた。或いは空海が中期密教の後継者などと言うが西安青龍寺は、金剛頂経系のお経を完全に入手していなかったのである。九会曼荼羅は、金剛頂経のガイドブック(十八会指帰じゅうはってしいき:金剛智)を元に完成させたと思われる。そして九会曼荼羅の中央の成身会が不空翻訳の金剛界大曼荼羅に相当する。金剛智はインドから金剛頂経の広本18部の輸送中、東シナ海での海難事故により中国への輸出に失敗している。また、大日経にはサンスクリット原典がなく経典成立史が見いだせないのである。学者どもは法華経には経典成立史が存在するというが、無いほうがおかしいのである。独自教義は各宗派にありそれは問題ではない。もちろん空海自身は秀才、或いは天才と言ってもおかしくない人物である事、疑いの余地はないが、空海完璧主義や空海と最澄のエピソードは空海に軍配が上がっている、しかしほかのエピソードもあるのである。
最後にここで日蓮について述べる。日蓮は真言に対しては亡国という表現であるが、釈迦仏は「娑婆世界」の仏であると法華経に書いてあることから大日如来では国が亡びるという教えに基づいている。しかし実際、日蓮宗の本尊には愛染不動明王が取り入れられており、或いは本尊が曼荼羅であると言う事、若いころ高野山五坊寂静院に潜り込んでいたなど密教にはかなりの興味を持っていたようである。また、愛染明王・不動明王に対する思いは愛染不動感見記等の文献に残されている。というわけで日蓮宗には真言が混入している事は有名な話である。しかしながら日蓮は法華経を中心とした宗派を作りたかったのである。日蓮宗の曼陀羅は、南無妙法蓮華経が中心となり不動愛染が脇侍となっている。国家を守護するお経は聖徳太子の時代から法華経なのである。また、日蓮宗の御本尊もオリジナルであるが、真言八祖である不空三蔵の著作、「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌」を典拠とする法華曼荼羅というものがある。この事からも中国の真言宗でも法華経が尊ばれていたことが分かるのである。 お経というものはインド人が書いたから価値があるというものでもないのである。
●ほんとうの法華経:(ちくま新書)橋爪大三郎 (著), 植木雅俊 (著) より。 法華経後半六品は、華厳経より古いのです。. 観音の浄土である、ポータラカ(Potalaka、補陀落) が観世音菩薩普門品に登場しないと言う事は、法華経後半6品が 華厳経入法界品より古いと言う事を意味している。 文殊菩薩は初期般若経に登場していません。 文殊菩薩も普賢菩薩も法華経が起源なのです。 植木はこういうウソをつくから最低だと言っているのです。
●『般若経』『華厳経』『金剛頂経』は、寄せ集めのお経であり、他のお経と重複する部分がある、 因みに金剛頂経は、般若経とダブる部分がある。 しかし、法華経は一つの計画のもとに書かれた一本のバイブルなのである。
まずはじめに、般若経と文殊との関係について一言しておきたい。 一般には、文殊菩薩は悟りの智慧を現わす菩薩であると見られ、般若波羅蜜と密接な関係があると見られているようである。 すなわち文殊菩薩は般若教徒によつて信奉せられ、発農せしめられたと考えられやすい。 しかし実際には、文殊菩薩は古い般若経とは関係が少いのである。それゆえ般若経の中から、文殊菩薩が現れたとは考え難い。