法華経成立史のデマ

  勝呂信静博士 の死後、法華経成立史はでっち上げの法華経論を展開している。法華経には、にじょうさぶつ、当たり前で常識的な平等思想など説かれるが、大部分は、強烈な神通力と呪術である。法華経編纂時の在家仏教徒は、小乗仏教のこき下ろしと、神通力の融合を画策した。そして法華経は寺院運営は可能であるが、出家主義ではないので、小乗仏教に見られる集金システム(托鉢)や、出家者だけに与えられる得度や受戒も存在していなかった。法華経写本の翻訳にいち早く手を付けたのは、大正時代の浄土真宗僧侶で学者の荻原雲来と南条文雄である。なぜ浄土系が法華経写本にかかわるのか不明であるが、私は法華経についての様々なデマが飛び交っている事実に鑑みて、法華経以外の経典の、成立史がはっきりしない事、法華経が開発した菩薩や神通力、分身思想などのパフォーマンスが、法華経の特許であるにもかかわらず、密教で重要である事に鑑みて、それを認めたくない宗派の事実隠蔽工作であると思う。ここまで言わせていただかなくては納得がいかないレベルなのである。法華経の「後半七品」に対して、他宗の学者や坊主が呪術性が強いなどと言っているが、法華経は全ての章において呪術性が強い。法華経はアマチュア在家衆が主体となって作られた万能経典であり、思想はいたって単純であるが、仏弟子以外のキャラクターや、神通力などのパフォーマンスは全章に見られる。それではなぜ他宗の坊主や学者が法華経後半七品を問題視するのか?それは後半七品の中に、「観世音菩薩普門品」や「普賢菩薩品」「陀羅尼品」があるからである。また「地蔵菩薩」、密教法具である「金剛杵」が登場するからである。観世音菩薩普門品は、普門示現と言って、「分身化身思想」があるが、これは法華経全編に見られる特徴であり、妙音菩薩品さらに法華経では教主釈尊自体が分身化身しており、観世音菩薩普門品だけに見られる特色ではない。さらに観世音菩薩普門品の偈頌すなわち「世尊偈」が独立して存在していたなどという『トンデモ論』まで存在するが、世尊偈が単独で発見された事は無く、重偈であり、観世音菩薩は、元々民間伝承であり、仏教ですらなかったのであり、仏教経典としてそんざいしていたという考古学的根拠は皆無であり、普門品は長行、偈頌共に法華経起源である事疑いの余地はないのであるが、下劣な坊主や学者が法華経以外の経典の価値を上げようと画策し、こともあろうに日蓮系の坊主や学者までもが魂を売り飛ばしているありさまである。 私は日蓮系には失望している。また、「序品第一」に学者がこだわるのは、釈尊の眉間からいきなりビームが発射されるという脅威的な神通力や、文殊菩薩、薬王菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩が登場するから法華経の最古層としたくないのである。これらの菩薩たちは法華経が開発したものだ。また、序品第一には、法華経の「無限連鎖」が説かれるなど、法華経が伝説のお経という設定に嫉妬しているからである。後半六品の菩薩、並びに「文殊菩薩」たちは、法華経が開発した仏であるが、密教において重要な菩薩である。「観音菩薩」の三十三身は有名で、それが密教や観音信仰にとっては、「脅威になりかねない」のである。 密教擁護の坊主は、

「嘱累品、以後は重偈がなく神呪があったり形態がちがう」

などと言っているが、これは「呪文の類」が法華経にある事を、浄土系或いは、観音信仰系、が認めたくないからである。 嘱累品は鳩摩羅什が移動したものだし、法華経後半に法華行者を守護する陀羅尼が出てきて何がおかしいのか?ダーラニーについては法華経前半から説明がある。また後半の六品は各菩薩の章であり、これもまた法華経の構成に過ぎない。法華経成立史については、現在仮説のみであり考古学的発見は全くない。植木雅俊などの学者?は、平等思想、二乗作仏、女人成仏など法華経の中にある危険性のない思想だけを賞賛しているが、実際、法華経の大部分を占める、危険性のあるカルト思想、アマチュア在家衆による神通力、密教の根幹となる登場人物の開発、ダーラニーなどの呪、あるいは他の経典に類を見ない舞台設定や舞台装置など、法華経の独創性から目をそらさせる、『恣意的なほめ殺し作戦・印象操作』ともとれる。

密教の優越性は空海の「十住心論」からの流れである。空海は宗派を十段階に分け密教を頂点に置いた。密教以外を顕教と呼び、ランキングを付けた。しかし密教とそれ以外を明確に分ける基準は「出家主義」と「心、口、意」と呼ばれる、経典読踊から呪文や印、マンダラなどのシンボリズム化であり、神通力に関しては、法華経をネタにしているものが多数ある。